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概要

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 昭和4 年(1 9 2 9 年)2 月7 日、父が台湾・新竹州新竹郡で公学校(日本語に習熟していない台湾籍の子供を対象とする小学校)の教員をしていた関係で、この地で新垣家の二男として生まれた。新竹尋常高等小学校尋常科から新竹中学校へと進んだが、4年生時に海軍甲種飛行予科練習生(通称・予科練)を志願し、「霞ケ浦海軍航空隊入隊を命ズ。即日,防府海軍通信学校ニ派遣修業ヲ命ズ。」との辞令に従って同校に入校し、送受信の技術を叩き込まれた。沖縄県内の師範学校や中学等からの同期入隊者、いわゆる同期の桜の仲間には、既に亡くなった方もあるが次の諸兄の名を挙げることが出来る。中には、ご承知の方もおられると思う。カッコ内は、戦後の勤務先や職業である。 古堅正雄(クリーニング店経営),加屋本豊市(那覇税務署長),武富良規(重要無形文化財組踊技能保持者)、玉城 稔(防衛施設局員),佐久田 繁(日刊沖縄社),砂川恵伸(琉球大学学長),嘉数正吉(建材会社経営),浜松 宏(外科医),橋口英明(産婦人科医),仲宗根佑正(本部町教育長),山本 暁(旅行社経営) 同校を卒業した練習生は、霞が浦航空隊には戻ることなく各地の実施部隊に配属された。私は、鹿児島県・桜島にあった第五特攻戦隊(魚雷艇震洋の基地)司令部付となり、一日中「・―・・―  -・・-」と送受信の日々を送るようになったが、数カ月で終戦の日を迎えた。今年はその日から75年。2月に満91歳となり弁理士となってから53年が経過した。「つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」 中学校に入って初めて出会った兼好法師のこの文章、難しい文語文ではあったが、何となく大人になったような気分で国語の時間が待ち遠しかった。国語の先生は、今,想い返すと、当時,30歳台だったのではないかと思うが、「徒然草の真の味わいは、君たちが人生経験を積んでからでなければ判らないものだ。」と言われたことが頭に残っている。この齢になって少しはこの意味が分かるような気がする。 知財関係の仕事に永年関わってきた今、これまで体験してきたこと,とりわけ沖縄県との関わりの中の知財のあれこれを、おこがましくも徒然草に倣って思いつくまま書き残したい。 私は弁理士の登録前は東京高等裁判所に勤務し、裁判所書記官として知財関係訴訟事件を担当していた。東京高等裁判所は、特許庁の審決取消訴訟事件を一手に引き受ける所謂,専属管轄裁判所である(*1)。弁理士試験には昭和37年に合格していたが、同部では、知的財産に関する日本中の凡ての事件に触れることができ、毎日がやりがいのある充実した日々であったので居続け、幸い転勤を命じられることも無く、退職したのは、それから大分経った昭和42年(1967年)4月、38歳のときであった。本年3月31日における我が国の弁理士の総数は11,460名であるが、当時は試験合格者が年に数十人程度だったので、全体ではほぼ3,000人前後で弁護士の知財徒然草美ら島沖縄大使(弁理士)新 垣 盛 克(1) 連載略歴昭和4年2月7日生まれ。昭和23年より東京高等裁判所に勤務、裁判所書記官として知財関係訴訟事件を担当しながら昭和37年に弁理士試験合格。沖縄県に弁理士が1人もいない頃から、沖縄県内の知的財産権保護に尽力した。長年、沖縄県発明協会が主催している「発明くふう展」の審査委員を務める等、沖縄の特許に関する普及啓発に深く関わっている。寄 稿OKINAWA INDUSTRIAL FEDERATION NEWS 14