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年恒例となっている「沖縄産業の恩人」サムエル・C・オグレスビー氏の追悼式が、今年も無事に行われました。オグレスビー氏は第二次世界大戦後の1950年、米国民政府職員として沖縄に赴任し、沖縄で勤務した16年間、現沖縄県工業連合会の前身である琉球工業連合会のアドバイザーを務め、沖縄の経済、特に工業の振興に大いに尽力されました。沖縄県工業連合会では氏の偉大な功績をたたえ、命日の12月20日に那覇市・泊の外人墓地に建てられた顕彰墓碑の前で追悼式を行っているほか、故人の名前を冠した産業功労者賞や奨学金制度を設けるなど氏の功績と遺志を次世代へ繋ぐ活動を続けています。 当日は沖縄県工業連合会の理事・顧問をはじめ、オグレスビー氏工業功労者賞受賞者、(公財)沖縄県国際交流・人材育成財団役員など関係者約30名が参列しました。追悼式代表挨拶に立った沖縄県工業連合会の呉屋守章会長は出席者への感謝を述べ、オグレスビー氏の功績を後世に語り継ぐこと、沖縄の産業の発展に尽くすことを改めて誓いました。毎oglesby, samuel c.故サムエル・C・オグレスビー氏第52回追悼式 日付: 平成3 0年12 月20 日(木)場所:那覇市・泊 外人墓地故サムエル・C・オグレスビー氏の命日である12月20日、那覇市泊の外人墓地敷地内に建つ顕彰墓碑前で第52回追悼式が行われました。参加者たちは賛美歌や献花で氏への感謝と尊敬の意を示しました。「沖縄産業の恩人」サムエル・C・オグレスビー氏(1911~1966)沖縄県工業連合会呉屋守章会長参列者一同による賛美歌斉唱および献花オグレスビー顕彰墓碑 サムエル・C・オグレスビー氏は、1911(明治44年)年10月25日、アメリカ合衆国バージニヤ州で生まれ、1933(昭和8)年、メリーランド大学博士課程を卒業します。1942(昭和17)年米国陸軍に従軍し、1945(昭和20)年3月には、米陸軍政府将校として来沖し、その後エール大学で極東問題と日本語の研鑽を積みました。 同氏は、1950(昭和25)年3月、第二次世界大戦終焉の激戦地として灰燼と化した沖縄に米国民政府職員として赴任され、沖縄の良き理解者として沖縄の経済、特に工業の振興に献身的に尽くされました。沖縄勤務の16年間、琉球工業連合会(現沖縄県工業連合会)のよきアドバイザーとして深くかかわり多くの産業を育てました。製糖、味噌醤油、食油、ビール、セメント、鉄筋、合板、菓子類に至る各製造業の90%は同氏の後援・指導を受けました。 1963(昭和38)年5月21日に琉球工業連合会は創立10周年を迎え、これを記念して、会員の芳志を募り、オグレスビー氏の胸像を制作することを決定しました。やがて、胸像が完成し、翌年1964(昭和39)年12月2日、贈呈式と祝賀会が行われました。その2年後、1966(昭和41)年12月20日、オグレスビー氏が逝去。「沖縄に埋葬してほしい」との遺言により、泊外人墓地に埋葬されています。沖縄産業の恩人 故サムエル・C・オグレスビー氏1967(昭和42)年オグレスビー氏の長年の功績を記念して、「オグレスビー氏産業開発基金」が設立されました。同基金では毎年、沖縄の工業発展に著しく功績のあった方に「オグレスビー氏工業功労者賞」の授与と工業高校・沖縄高専の学生に奨学金を支給しています。オグレスビー氏産業開発基金OKINAWA INDUSTRIAL 12FEDERATION NEWS